ヴィラ=ロボスの生涯

ヴィラ=ロボスの出生 
エイトール・ヴィラ=ロボスは1889年のブラジル連邦共和国誕生の直前、87年3月5日に当時首都であったリオ・デ・ジャネイロに生まれた。この頃のリオは人口50万にも満たない岩山と海に囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な街並みと、大通りを優雅に馬車が行交い、夜は爽やかな涼しい風が流れ、ガス灯の点った街角にはセレナートが、酒場からはカンソン、モジーニャ、ショーロが賑やかに聞こえてくると云った亜熱帯に位置するヨーロッパ風の美しい都会であった。この風光明媚な景観はナポリやシドニーと共に、世界の三大美港と言われ、今なお旅行者の憧れの地である。

家族と少年時代 
エイトールの父ラウル・ヴィラ=ロボスは歴史学、天文学の大学教授、著述家としても高名で、格調の高い伝統的な家系を継続した人物で、アマチュア音楽家としてもチェロやギター、クラリネットなどを弾きこなすなかなかの腕前の持ち主であった。自宅で友人達とアンサンブルを楽しみ、コンサートも開いた。
彼はそうした父から音楽の手ほどきを受け成長、6才の時にギターを改造したチェロが与えられ、やがてクラリネットも習い、12才でギターやサクソフォーンもマスターした。また、ピアニストの叔母ジジーニャは、彼が幼い時からバッハの《平均律》を弾いてバッハについて語って聴かせていたと言うから、彼が終生バッハを敬愛してやまなかったのは、少年時代に耳にしたこのバッハの音楽への深い憧憬からだと言われている。
聡明で理知的な女性の母ノエミヤだけは、利発なエイトールを将来は医者にしたいと考え、彼が音楽に熱中することに反対した。だが、エイトールはそうした母の目を盗んでは最も愛したギターをひそかに独習した。
不幸にも12才の時に最愛の父の急死に出会い大きな悲しみを背負ったが、音楽への情熱はますます高まるばかりで、しばしば家を抜け出しては、巷のショーロの楽士達の集団に入り込んでは彼らの民族楽器をマスターした。16才になり、エイトールは母の下を離れ、別の叔母の元に身を寄せ、ショーロ楽団に加わり、本格的に彼らの即興演奏の妙技を身に付けようと意欲を燃やした。やがてショーロ仲間の間でギターの名手にはなったが、父の貴重な蔵書がこの仲間達の酒代に消えたのは申すまでもない。
18才になった彼は残った父の蔵書を売り払って旅費を工面、政府の奥地調査団一行に同行しブラジル東北部を旅した。ここでは先住民インディオや、奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人たち、さらにポルトガルの移民たちが歌う、生命感溢れる独特の民謡を採譜して歩いた。ときには農園などに寝泊りして住民と生活を共にし、小舟が転覆して危なく命拾いをしたりしたこともあったが、この旅で収集した貴重な民謡の数々は、生涯の彼の創作に大きな役割を果たした。

作曲家ヴィラ=ロボスの誕生  
1907年、20才を迎えた彼は、伝統的な作曲の手法を学ぶため、リオ・デ・ジャネイロの国立音楽学校に入り、生まれて初めて和声の講義を受けた。だが既に独自の創作の世界に目覚めていた彼にとって大した意味がなく、半年で学校をやめ、再びブラジル南部、西部への音楽放浪の旅に出て様々な経験をし、23才の時にはチェリストとしてオペレッタ一座に加わり、東部のレシーフェ、さらに北部のアマゾン地帯にまで足を伸ばし、ブラジルの風土や民族文化を知ることに努めた。
1912年に習作オペラ≪イザート≫を作曲。翌13年に最初の妻であるピアニストのルシリア・ギマランイスと結婚。
1915年、28才の時にそれまでに書き溜めた作品を初めて一般に発表する記念すべきコンサートをリオの劇場で開いた。
≪ピアノ三重奏曲第1番≫、≪ヴァイオリン幻想ソナタ第2番≫、チェロやピアノの小品と数曲の歌曲などであったが、当時としては余りに斬新で独創性に溢れた一連の作品は、聴衆を驚かせ、ごく一部の賛同者がいたものの殆どは全く理解できず、批評家は「山師」とさえ酷評した。30才の時に行なったオーケストラ作品のコンサートでも、≪交響曲第1番≫や交響詩≪アマゾン≫のリハーサルで、楽員達の反発に合い、演奏をボイコットされるなどして困惑したと言われる。現代の感覚では決して耳障りなものに聞こえない和音も、当時の保守的なブラジルの音楽界では不愉快なものとしか受け取れなかったようだ。この頃、すでに100曲近く作品が器楽、声楽、室内楽、管弦楽の分野に書かれていたが、世間からは受け入れられず、彼にとって全く不当な苦闘が続いた。

新たな転機を迎える 
そうした時期に、彼に大きな転機を与えた二人の世界的音楽家との出会いがあり、彼は大きな自信と勇気を得ることになる。
1917年、フランス大使の秘書官としてリオ・デ・ジャネイロに赴任してきた作曲家ダリウス・ミヨーとの出会いは、レコードなどもなくヨーロッパ楽壇の情報に乏しかったヴィラ=ロボスに希望をもたらした。ミヨーは、ドビュッシー以降のフランス音楽や新しいヨーロッパ音楽界の動向を伝え、ミヨー自身もヴィラ=ロボスの斬新な作風に大いに関心を寄せ、影響を受けた。この頃、彼の作曲様式を決定的にした交響詩≪ウィラプルー≫やバレエ曲≪アマゾン≫が書かれている。
その翌年には、ポーランドの世界的ピアニスト、アルトゥール・ルビンシュタインとの出会いがあった。以前からヴィラ=ロボスの評判を聞いていたルービンシュタインは、リオを訪れた機会に早速ヴィラ=ロボスに面会を求めたが、たまたま不機嫌だった彼に拒否されてしまった。翌朝になってヴィラ=ロボス自らホテルを訪問し前日の無礼を詫び、同行した12名の楽士を指揮して自作を披露した話は有名である。この頃、ヴィラ=ロボスは既に多くのピアノ曲を作曲しており、ルビンシュタインの興味をそそった。1926年作曲の≪野性の詩≫はルビンシュタインに捧げられている。これ以後、この二人の友情は生涯続けられ、ルビンシュタインは世界各地で彼の作品を演奏し広めた。昭和10年に初めて日本を訪問したおりにプログラムを変更してヴィラ=ロボスの曲を披露した程である。
1920年を境にして33才を迎えた彼の周りはようやく理解の目を向けるようになり、1922年には政府から援助金が与えられ、サンパウロの「新芸術週間」にも参加した。ブラジル訪問中のベルギー国王臨席のコンサートでは作曲者自身が自作の≪交響曲第3番≫、≪第4番≫を指揮し、感銘を与えたと言う。

パリに出向いたヴィラ=ロボス 
ヴィラ=ロボスはミヨーに会って以来心をひかれていた待望のパリに渡ったのは、1923年6月のことである。既に36才になり、作曲家としての自負もあった彼の目的は留学ではなく、作曲家としての自分の業績を世に問いたいと言う意思からで、当時のパリはヨーロッパの芸術の中心地、世界中から音楽家たちが集まっていた。ここで彼は、ルビンシュタインの紹介で、ダンディ、シュミット、ストコフスキー、ヴァレーズ、マルグリット・ロン、画家ピカソなど著名人と出会い親交を深めた。パリでの名ギタリスト、セゴビアとの出会いはお互い生涯にわたり深く素晴らしいものになった。ヴィラ=ロボスの豪快で豊かな率直な人柄はパリの気取った社交界にあっても気のおけない存在として人々に愛された。
ルビンシュタインは、パリの有力楽譜出版社マックス・エシーク社に彼を紹介し、作品の出版を促し、彼はここで校正の仕事にもついた。エシーク社が出版した彼の多くの作品は後に至ってヴィラ=ロボスの作品を世界中に広めるのに大きな役割を果たし、また楽譜の紛失や散逸を防ぐのにも貢献している。
1930年に彼がパリを離れて祖国に戻るまでのここでの7年間は、彼にとって生涯で最も充実した期間であった。ヨーロッパの殆どの国々の主要都市に招かれ、自作を指揮し各地で注目を浴びた。また、しばしばブラジルに戻っては自作やフランス近代の作品を紹介するコンサートを開いて自国音楽界の啓蒙を行なった。パリ滞在中には合唱つき九重奏≪ノネット≫をはじめ10曲の連作≪ショーロス≫、ピアノ曲、歌曲集、ギター練習曲など多くの作品を書いている。コロンヌ交響曲団を指揮して250名の合唱団で初演した管弦楽と合唱による≪ショーロス第10番≫はフローラン・シュミットが絶賛、その壮大さはパリジャンの耳目をひきつけた。またパリ音楽院の作曲科教授に任命されたことは独学独歩の作曲家としては、少なからぬ栄誉であった。パリにおけるヴィラ=ロボスの創作の詳細については、木許裕介の論考『パリのヴィラ=ロボス』を参照されたい。

祖国の音楽文化の発展に尽す  
パリ滞在を終え祖国を活動の場に帰国したヴィラ=ロボスは、腰を据えて祖国ブラジルの音楽文化の開発と向上に情熱を傾けた。丁度ブラジル無血革命で共和国初代の大統領にヴァルガスが就任、帰国したばかりの彼は当局の文化顧問として音楽教育に参加。何よりも音楽教育の大切さを提唱し、楽譜の読み方やソルフェージュの新しい指導法を編み出したり、少年少女達の合唱活動を盛んにするために多くの合唱曲を書き、サッカー場に1万2千人の少年少女を集めて大合唱を実現したり、精力的に活動した。
代表作≪ブラジル風バッハ≫の連作に取りかかったのはこの頃で、≪第1、2番≫が完成した。
また、ブラジル南西部の数十ヶ所にも及ぶ未開な地方に派遣され、演奏会や講演会を行ない、時には「フットボールにばかりに凝っていては馬鹿になる」などの激しい口調にトラブルを起こしたこともあったと言うが、独自の情熱でクラシック音楽の普及に努めた。さらに、リオ・デ・ジャネイロにヴィラ=ロボス合唱団、管弦楽団を組織し、普及と啓蒙に活躍。自ら指揮しベートーヴェンの≪荘厳ミサ≫を初演、またバッハの生誕250年を記念し≪ロ短調ミサ曲≫を初演するなど、この活動は10年にわたって続けられ、ブラジルの音楽文化発展に大きく貢献した。
1936年にはチェコ政府に招かれ、プラハでの音楽教育会議に出席。この頃妻ルシリアとの結婚を解消し、愛弟子アルミンダと共に暮らすようになった。この頃から彼の作曲活動はさらに充実し、連作≪ブラジル風バッハ≫をはじめ、多くの代表作が次々に書かれた。大サッカー場ヴァスコ・ダ・ガマ・スタジアムでの全国合唱祭では4万人の児童が参加。彼は自国内ばかりでなく、活動は欧米の国々にまで及び、多忙をきわめた。
1943年、56才の時にニューヨーク大学から名誉博士の称号が贈られ、翌44年にニューヨーク、ボストン、ロサンゼルスなどの各交響楽団で自作を客演指揮し絶賛を浴びる。45年にはリオ・デ・ジャネイロにブラジル音楽アカデミーを創設、初代の総長になり、音楽文化の普及・発展と、音楽家のレベルの向上にますます貢献、努力した。

ヴィラ=ロボスの晩年
だが、この頃から健康状態の不調が続き、48年パリを訪れた後、ニューヨークで入院、本人には知らされなかったが癌の摘出手術が行なわれ、一年後ようやく退院、莫大な費用は政府や友人たちの寄付で賄われた。
その後健康を気遣いながらアルミンダ夫人の手助けのもとで再び円熟した作曲活動、国際的な演奏活動は続けられた。
1959年1月、パブロ・カザルス国際コンクールの審査員としてメキシコに招かれ、ここで奇しくもカザルスに同行していた日本人チェリスト平井丈一朗氏に会い、「貴方のためにチェロ協奏曲を書いてあげよう」と約束し(これはついに果たせなかったが、日本人で生前のヴィラ=ロボスに直接会ったのは彼一人である)、その足でヨーロッパを一巡、7月12日にニューヨークで自作を指揮し、これが最後の演奏となった。帰国後、健康状態の不調が続き、再びニューヨークの外国人病院で加療、奇跡的に病状が好転、リオに戻ったが、11月17日についにリオの自宅で最愛のアルミンダ夫人に看取られながら、野趣とロマンに満ちた72年の人生を終えた。

ヴィラ=ロボスの遺産 
現在、リオ・デ・ジャネイロにはヴィラ=ロボス記念館が置かれ、国の補助のもと、彼の残した膨大な数の楽譜、貴重な資料が保管されている。25年間館長を務めたアルミンダ未亡人は85年に亡くなり、1999年現在はギタリストのトゥリビオ・サントスが館長を引き継いでいる。毎年11月17日には教会で命日のミサが行われ、一週間にわたってヴィラ=ロボス音楽祭を開催し、コンクールや演奏会で彼の偉業が称えられている。


ヴィラ=ロボスと日本

セゴビアの来日
ヴィラ=ロボスとセゴビアが親交を深めて3年目、この世界的ギタリストが初来日したのは昭和4年(1929)。彼がこのときプログラムにヴィラ=ロボスを入れたかアンコールで弾いたかは不明だが、きっと演奏したに違いないと思われる。だとすれば、これがヴィラ=ロボス作品の日本上陸の最初となるだろう。

音楽家叢書にヴィラ=ロボス 
昭和8年(1933)、東京麹町の普及書房が刊行した『現代世界音楽家叢書』第9巻にヴィラ=ロボスが取り上げられている。
海軍軍楽隊出身の作曲家伊藤昇氏がこれを著しているが、伊藤氏は遠洋航海でフランスに立ち寄った際にヴィラ=ロボスのことを知り、彼の作品をわざわざ取り寄せて研究し、その作品の斬新さに深い興味を抱き、叢書に執筆した。その序説には「彼の特異性のある作品の多くはパリでも些か風変わりなものとして迎えられているようである。……ヴィラ=ロボスは本年漸く46才を迎えたばかりで、彼の本当の活躍はこれからで、今後に期待をもって良いと思う」1933年5月……とある。伊藤氏の先見の明に脱帽する。

ギターの作曲家ヴィラ=ロボス
戦後ヨーロッパに渡り、セゴビアをはじめ名のあるギタリストに師事した日本人ギタリスト達が、帰国コンサートで盛んにヴィラ=ロボスのギター作品をプログラムに取り上げた。ヴィラ=ロボスのギター作品は彼の全作品の中では一部に過ぎないが、中身の濃さから言って主要な作品ばかりである。ヴィラ=ロボスの他の作品が演奏されることはこの頃はなかったから、愛好者の間でギター作品だけが知られ、ヴィラ=ロボスを単にギターの作曲家のように思ったひとたちも多かったようだ。

アルミンダ未亡人の来日
N響のファゴット奏者として活躍していた山畑肇氏はお嬢さんが弾いていたヴィラ=ロボスのギター作品に魅かれて、大のヴィラ=ロボスファンになった。N響が昭和43年に南米を演奏旅行した際、メンバー数人とヴィラ=ロボス記念館を訪ね、アルミンダ未亡人の大歓迎を受けた。その縁で2年後の大阪万博が開かれた昭和45年8月、アルミンダ未亡人をブラジルから招き、N響メンバー有志による『ヴィラ=ロボス記念コンサート』が行なわれ、室内楽作品の幾つかが日本初演された。ギター曲以外の作品が日本で聴けたのは恐らくこれが初めてであったろう。

認知されたヴィラ=ロボスの世界
私がヴィラ=ロボスコンクールで受賞した1975年頃の日本では、一般の音楽ファンのヴィラ=ロボス認識は極めて薄いものだった。ただこの年に、東芝EMIが出したLP…カポロンゴ指揮、パリ管弦楽団の≪ブラジル風バッハ≫ は、ごく一部のクラシックファンの目にとまり、隠れたヴィラ=ロボスファンが芽生えるきっかけとなったと思われる。
その4年後の79年、パリやニューヨークを中心に『ヴィラ=ロボス没後20年記念音楽祭』が世界的規模で行われていた。
「日本でも是非ヴィラ=ロボス没後20年の記念コンサートをして戴きたい……」と言うブラジル外務省からの委嘱がブラジル大使館を通してこの私に伝えられたのは10月末のことであった。ブラジル的な突然の申し出に私は大変戸惑ったが、資金はブラジル側が負担という話に乗って、コンサートの準備は進められた。困難と思った会場は暮れも迫った12月28日に九段下の日本教育会館と決まり、オーケストラは東京シティフィルが引き受け、開催は現実となった。
正直言って、暮れも押し迫ったこのようなコンサートを聴きに来る人がいるのだろうか、という心配をよそに『ヴィラ=ロボス没後20年記念コンサート<ギター独奏(中村博)と管弦楽曲の夕べ>』は予期せぬ多数の入場者を得て、ギターの小品と日本初演の3つの管弦楽曲≪ブラジル風バッハ第9番≫、≪第2番≫、≪小交響曲第2番≫ は聴衆の反応も温かく、盛会裡に無事終了した。
この記念コンサートのことが翌年の1月14日の東京新聞夕刊に掲載され、詩人清岡卓行氏の「密やかな言葉に酔う」と題した五段のエッセイにはコンサートへの思いが一杯に寄せられ、文末の「日本におけるヴィラ=ロボス愛好の最初の一里塚に立ち会ったような、ほのぼのとした楽しさを抱いて帰路についた」は大きな励ましであった。
その後ブラジル政府の資金援助で、私の企画、指揮による2回の『ヴィラ=ロボスの作品を聴くコンサート』が、80年に『合唱と管弦楽室内楽の夕べ』、82年に『声楽と弦楽室内楽、チェロオーケストラの夕べ』が行なわれ、多くの作品が初演された。こうして漸く日本の音楽ファンの間にもヴィラ=ロボスへの関心が呼びおこされ、やがて日本ヴィラ=ロボス協会が誕生、87年に世界的規模で行なわれた『ヴィラ=ロボス生誕百年記念音楽祭』は、日本でも盛大に、ブラジルの演奏家を迎えて5回にわたって多彩に開催され、ヴィラ=ロボスの名は音楽ファンの間にさらに広がった。
その後、日本ヴィラ=ロボス協会は毎年2回のコンサートを続け、ヴィラ=ロボスのみならず、ブラジル、南米の国々の作曲家の作品にまで広げた演奏を行なっている。いまや楽譜、CD売り場には当然のごとくヴィラ=ロボスコーナーが設けられている。

日本ヴィラ=ロボス協会初代会長 村方千之

(『音楽の世界』1999年11月-12月号に執筆したものを一部編集した)

ヴィラ=ロボスの生涯と作品についての年表は、こちらの下部からご覧ください。