エイトール・ヴィラ=ロボス(1887年3月5日〜1959年11月17日)はブラジルのリオ・デ・ジャネイロで、学者・音楽家ハウル・ヴィラ=ロボスの息子として生まれた。早くから音楽に接し、幼少時より父親にチェロとクラリネットの演奏を教わった。青年ヴィラ=ロボスは、バッハの作品を深く敬愛したが、最も魅了されたのは、リオ・デ・ジャネイロの夜々にこだまする「ショーロ」や「モーダ」など、ブラジルのストリートや小都市で生まれる民族音楽であった。早くも18歳にしてミュージシャンとして働き始め、ブラジル全土を旅して広大な国土の民衆と文化の伝統やフォークロアを学ぶ。
この絶え間ない旅の中からヴィラ=ロボスの音楽 ———モダンで独創的、不協和で感動的な音楽が生まれた。当初、批評家や聴衆の強い反感や激怒すら招いたヴィラ=ロボスの作品は、ブラジルの民衆と自然、その精神と暮らしの躍動的表現によって、まもなくブラジルとヨーロッパ、アメリカを魅了することになる。
「私はモダンたらんとして不協和音を書くわけではない。まったく違う。私の作品は、これまでの研究や、ブラジルの自然を映し出すために考え至った集大成の壮大な成果だ。直感と経験に従って己の教養を育もうとしたとき、一見音楽とはまったく無関係な作品を調査・研究することでしか深い認識に到達できないことがわかった。だから、私の最初の書物はブラジルの地図であり、そのブラジルを町から町へ、州から州へ、森林から森林へと狩猟して、その土地の魂を綿密に調べた。それから、その土地の人々の正確を、そして、その土地の自然の驚異を。続いて、自分の研究を外国の作品と付き合わせ、自分の考えの主観性と不変性を堅固にする支えを探した」
ヴィラ=ロボスは生涯を通じ1000曲以上の作品を遺し、クラシック音楽分野でブラジルの真の伝統を確立しただけなく、自身の想像力を広めて国際的評価を得た。1959年に没して50年を経た今日でも、ブラジルの最も有力なクラシック作曲家として、その作品は愛奏され続けている。
自分自身について
H.ヴィラ=ロボス
―― わたしはごく小さかった時から、父の手により小さなチェロを与えられて、音楽に親しみ始めた。
父は、広い知識を身につけた教養人で格別な知性の持主であったばかりか、完全な技術をそなえた音楽家でもあった。父はわたしをいつも演奏会やオペラ、リハーサルなどに連れて行き、器楽合奏の様子をわたしに見せてくれた。
わたしはまたクラリネットの奏法も学び、音楽作品の作者、ジャンル、様式、特色などを言い当てられるように教育された。同時に、鳴らされた音や、折り折りの雑音――たとえば電車のきしる音とか、小鳥の声とか、金属の落下した響きとか――を聞いて、即座にその音高が言えるようにしつけられた。もし、答えが外れていれば大変だった……。
わたしはいつも正直であり、真実の友であってきたし、現在もその性質を保ち得ていると思う。
わたしは誰とでも、腹立ちまぎれや私怨によって争ったことはない。やむをえず敵になった人や偶然の対立者を、わたしは重くは考えない。もしそのような人びとが出てきたら、わたしはそれを人生の運命、わたしが避けるすべを知らなかった不意の疼痛だと考える。ともかく、敵のあることは利点も伴う。彼らはわたしが、自分の創り出す音楽のうちで“居眠りをしないように”してくれた。
わたしの友人や讃美者たちは、悪気なしではあるが、わたしの過ちや欠点を見逃してくれてしまうのだ。
わたしの音楽作品は、宿命によって生まれたものだ。もしもそれらが多量にあるとしたら、それらがこの広大な、豊饒な、暖かい土地の生んだ果実であるからだ。
ブラジルに生まれ、この国の中でその良心を築きあげた者は、たとえそのように望もうとも、ほかの国ぐにのもつ特色や方向を、まねることができないだろう。たとえこの国の基本的な文化が、よそから持ち込まれたものであるにしても、それは関係ないことだ。
わたしは、あらゆる意味において<自由>を愛する。研究し、調査し、働き、秩序正しく作曲することを愛する。
わたしは、つねに人類に役立つことを望んでいるが、誰のご機嫌もとりたいとは思わない。わたしが嫌いなものは利己主義、排他主義。わざとらしい勿体ぶり、それに偽りの謙虚さだ。
わたしはつねに、他人のなかに美質を認め、欠点を見まいと努力してきた。
わたしは生まれついてのカトリック信者である。
芸術は第2の宗教だと考えている。
わたしは、はかり知れぬほど<若さ>が好きだ。
そして教養ある人びとを尊重している。(1957年8月、マグダラ・ダ・ガマ・オリヴェイラのインタビューに答えて)
Autobiografia
Heitor Villa-Lobos
Desde a mais tenra idade iniciei a vida musical, pelas mãos de meu pai, tocando um pequeno violoncelo.
Meu pai além de ser homem de aprimorada cultura geral e excepcionalmente inteligente, era um músico prático técnico e perfeito. Com ele, assistia sempre a ensaios, concertos e operas, a fim de habituar-me ao gênero de conjunto instrumental.
Aprendi, também, a tocar clarinete era obrigado a discernir o gênero, estilo caráter e origem das obras, como a declarar com presteza o nome da nota, dos sons ou ruídos, que surgiam incidentalmente no momento, como por exemplo, o guincho da roda um bonde, o pio de um pássaro, a queda de um objeto de metal, etc. Pobre de mim quando não acertava…
Lembro-me que sempre fui sincero e amigo da verdade, coservando ate hoje essa mentalidade.
Nunca briguei com ninguém com raiva ou rancor. Não acredito em inimigos involuntários nem adversários fortuitous. Se há essa espécie de seres humanos, considero uma fatalidade de minha vida, como se fosse uma doença imprevista que não pude ou soube evitar. Em todo caso, há sempre uma vantagem com os inimigos: eles obrigam-me a não “cochilar” nas minhas criações musicais.
Os meus amigos e adomiradores, por serem bons e sem maldades, constumam perdoar os meus erros e defeitos.
A minha obra musical é consequência da predestinação. Se ela é em grande quantidade, é fruto de uma terra extensa, generoso e quente.
Quem nasceu no Brasil e formou sua consciência no âmago deste país, não pode, embora querendo, imitar o caráter e o destino de outros paísses, apesar de ser a cultura básica transportada do estrangeiro.
Gosto da Liberdade em todos os sentidos, gusto de estudar a pesquisar, de trabalhar e compor sistematicamente.
Desejo sempre ser útil à humanidade, mas não para agradar a ninguém. Detesto o egocentrismo, a exclusividade, o importante intencional e a falsa modéstia.
Procuro ver nos outros as qualidades e nunca os defeitos.
Sou católico por princípio.
Considero a arte uma segunda religião.
Gosto imensamente da juventude e tenho acatamento pelo povo civilizado.(entrevista concedida a Magdala da Gama Oliveira em Agosto de 1957)
エイトル·ヴィラ=ロボス – 年表(ヴィラ=ロボス博物館発行2022年版カタログポルトガル語版に記載の年表より木許裕介が翻訳し、一部補記を行った。人名および地名のカタカナ表記については諸説あり、現時点での暫定的なものである。)
1887年
·3月5日、リオデジャネイロで父ラウル·ヴィラ=ロボスと母ノエミア·ヴィラ=ロボスとの間に生まれる。
1892年、1893年
·ラウル·ヴィラ=ロボスが受けた激しい訴訟のため、家族は6カ月間リオデジャネイロを離れて暮らす。この間、リオデジャネイロ州(サプカイア)とミナスジェライス州(ビカス、サンタナ·デ·カタグアス)の内陸部を旅する。
·この時期から、最初の音楽的印象と、改造したヴィオラを使ったチェロの学習が始まった。
1880年(後半)から1890年(前半)にかけて
·父親と一緒にアルベルト·ブランダオの家に通い、そこで東北地方の音楽に接した。そこには、歌手、セレナーデの歌い手、シルビオ·ロメロやバルボサ·ロドリゲスなどの民俗学者が集っていた。
1899年
·父ハウル·ヴィラ=ロボスがリオデジャネイロでマラリアにより死去。
1900年
·母ノエミアへ、ギターのための最初の作品「パンケッカ」を作曲する。
1902年
·12月に、リオデジャネイロのアンダライ地区にある、今はなきボガリー·クラブでのコンサートにチェリストとして参加する。これが記録に残るヴィラ=ロボスの最初の演奏である。
1903年
·母ノエミアのいとこであるフィフィナおばさんのジョセフィーナ·ジ·カルヴァーリョとリオデジャネイロのカテテ地区に住み、より自由にショランエス(ショーロ奏者)たちと接することができるようになった。
1904年
·国立音楽院の夜間コースに入学し、チェロとソルフェージュを習った。同年、夜間コースは、新しくディレクターとなった作曲家 エンリケ·オズワルド Henrique Oswaldの決定により停止された。
1905年-1906年
·父から受け継いだ最も高価な本を売り払い、ブラジル北東部を目指し、エスピリトサント州を経てバイーア州、ペルナンブーコ州に至る。バイーア州とペルナンブーコ州の首都のほか、奥地にも足を伸ばし、工場や農場に短期間滞在した。後に彼が語ったところによれば、この旅の際に後に 「 Guia Prático – 1º Volume」を構成することになる大衆的な旋律や民謡、童謡などの歌を数多く聴き、収集したという。
1907年
·9月19日付のCorreio da Manhã紙に掲載された候補者リストによると、税関の警備員の仕事に応募している。
1908年
·ヴィラ=ロボスは数ヶ月間、パラナ州のパラナグアに住みそこで商人や巡回セールスマンとして働いた。これは彼にとって初めての文書に残る旅である。
·4月26日、サンタ·セリーナ劇場でのコンサートにチェロ奏者として出演し、自作の「レクーリ Recouli」(フルートとチェロと弦楽アンサンブルの作品)を弾き振りする。
·8月にリオデジャネイロに戻る。
·1923年に完成することになる「ブラジル民謡組曲 Suite Popular Brasilieira」の最初の曲となる「マズルカ·ショーロ」を作曲した。
1909年
·国立音楽院でのコンサートに参加し、作曲家エルネスト·ナザレのピアノ伴奏で·サン=サーンスの「白鳥」を演奏する。
1910年
·労働者協会のサロンで行われた、詩人で作曲家のカトゥーロ·ダ·パイシャオン·セアレンセによるブラジルのモディーニャに関する講演にて、ギター伴奏をする。
1912年
·オペレッタの劇団にチェリストとして雇われるも、この劇団はレシフェで解散。
·沿岸貿易船でサルバドール、フォルタレーザ、ベレン、マナウスを通り、彼がのちに語ったものによれば、バルバドス島にたどり着き、そこで「アフリカの特徴的な舞曲集」を書き始めたと思われる。
·ベレンでは、4月15日にTeatro da Pazで公演を行う。マナウスでは、少なくとも3回の公演にゲスト奏者として参加した。9月7日、アマゾナス劇場で、アントニオ·ビッテンコート州知事のサポートのもと、他の作家の作品とともに「grandisoso festival lítero-musical」を開催する。
·リオデジャネイロでピアニストのルシリア·ギマランエスに出会う。
·最初の大規模なオペラ《イザート》を作曲する。これはフェルナンド·アゼヴェド·ジュニオールとヴィラ=ロボス自身が台本を書き、エパミノンダス·ヴィラルバ·フィーリョのペンネームで署名した。彼が作曲した他の2つのオペラ、「アグライア」と「エリーザ」を融合させたものである。
1913年
·11月12日、後に彼の偉大な協力者となるルシリア·ギマランイスと結婚。
1915年
·1月29日、リオデジャネイロ州ノヴァフリブルゴのドナ·エウゲニア劇場で、自作曲による初のリサイタルを行った。自身でチェロを演奏し、ルシリアがピアノを演奏した。
·当時のブラジルの首都リオデジャネイロのAssociação dos Empregados do Comércioのサロンにおいて、自作曲による初の演奏会を開催した。その大胆な和声により、このコンサートは当時の有名批評家たちを驚愕させた。
1915年-1957年
·1915年より弦楽四重奏曲の作曲を開始し、1957年に至るまで全17曲の弦楽四重奏曲を残す。20世紀の作曲家の中でも、とりわけ多くの弦楽四重奏曲を残した作曲家となる。
1916-1957年
·1916年より交響曲の創作を開始し、1957年に至るまで全12曲の交響曲を残す。これらはアメリカ大陸やヨーロッパ各地でしばしばヴィラ=ロボス本人の指揮で演奏された。
1917年
·リオデジャネイロのフランス公使館で、ポール·クローデルの秘書をしていた作曲家ダリウス·ミヨーと出会う。ミヨーはディディモ通りにあったヴィラ=ロボスの家に来て、彼の初期の作品を聴くことになる。
·最も重要な2つの交響作品であるバレエ「アマゾナス」と「ウイラプル」を作曲。(前者はハウル·ヴィラ=ロボスのテクストに、後者はエイトール·ヴィラ=ロボスがインディアンの伝説にインスピレーションを得て書いたもの)
1918年
·ピアニストのアルトゥール·ルービンシュタインと出会い、親交を深め、国際的な計画に大きな支援を受けることになる。(注:ルービンシュタインとの出会いは1918年ではなく1920年という説もある。当協会としては最新の研究を踏まえ、1918年にヴィラ=ロボスがルービンシュタインのことを一方的に知り、1920年に二人の「出会い」があったという説を取る。詳しくは近刊予定の木許裕介著『ヴィラ=ロボス ブラジルの大地に歌わせるために』(春秋社)を参照のこと)
·ピアノ独奏のための「赤ちゃんの家族 第1集A Prole do Bebê Nº 1」を作曲する。
1919年-1935年
·歌とピアノのための「ブラジルの典型的歌曲集」を作曲。ヴィラ=ロボスが1911年にエジガール·ホケッチ=ピントがアマゾナス奥地を旅した際に録音採集した先住民の歌の音源を聞いたことがきっかけとなった。
1920年
·ギターのためのショーロス1番を作曲。1929年に完成する、不朽の14のショーロス集 の創作の始まりとなる。この曲は最も多様な室内楽と·交響的な編成のために書かれ、またこの曲は、エルネスト·ナザレ、マリオ·ジ·アンドラーデ、タルシラ·ド·アマラウ、オズヴァウジ·ジ·アンドラーデ、アルトゥール·ルービンシュタイン、トマス·テランといった芸術界の重要人物への献呈でもある。
1921年
·1926年に完成した作品「ルデポエマ」の作曲を開始する。彼のピアノ作品の中で最も複雑な作品の一つで、アルトゥール·ルービンシュタインに献呈されている。
1922年
·リオデジャネイロの市立劇場で、アルトゥール·ルービンシュタインが「赤ちゃんの家族 第1集 A Prole do Bebê Nº 1」を初演する。ヴィラ=ロボスは、作家で外交官のグラサ·アラニャの招きで、「近代芸術週間」に唯一の作曲家として参加した。
これは美的概念を変容させ、純粋なブラジル芸術の種を蒔くことを目的としてサンパウロ市立劇場(Theatro Municipal de São Paulo)で開催されたもので、マリオ・ジ・アンドラージ、タルシラ・ド・アマラウ、オズヴァウジ・ジ・アンドラーデ、メノッチ・デル・ピッキア、ホナウジ・ジ・カルバリョ、ギレルメ・ジ・アルメイダといった芸術家や知識人が参加した。
1923年
·下院の助成を受け、ルシリア·ヴィラ=ロボスを伴わずにグロワ号Groix で初めてのヨーロッパ旅行をする。最終目的地はパリで、そこでカルロス·ギンレ、アウナルド·ギンレ、ローリンダ·サントス·ロボ、グラサ·アラニャ、オリヴィア·ゲジス·ペンテアド、パウロ·プラド、コンセルヘイロ·アントニオ·プラド、ゲラルド·ロカら友人たちの助けを借りて、1924年までそこに滞在する。
·同年、ソプラノ歌手ヴェラ·ジャナコプロスVera Janacópulosとギタリストのイヴォンヌ・アストリュク Yvonne Astrucが、ヴィラ=ロボスの作品のいくつかをコンサートで演奏した。
·「ブラジル全土の簡潔な印象」という副題のついた「ノネット」を作曲し、オリビア·ゲジス·ペンテアドに献呈する。
1924年
·在フランスブラジル大使館の後援のもと、「Salle des Agriculteurs」で、彼の作品のみを演奏するフランス国内初の演奏会が開催された。この演奏会には、アルトゥール·ルービンシュタインなどが参加した。この際、1923年にパリで書かれた2つの作品、「幼子と母の詩」と「ノネット」が初演された。
·スペインのギタリスト、アンドレス·セゴビアと出会う。
1925年
·ブラジルに戻り、リオデジャネイロとサンパウロでコンサートを行う。
·ブエノスアイレスでは、在アルゼンチン·ブラジル大使ペドロ·デ·トレドの後援と地元関係者の招待により、ブラジル大使館、ラ·アルヘンチーナ劇場、オデオン劇場で、ノネットとショーロス第2番を中心とした自作の室内楽曲による3回の演奏会を開催した。
1926年-1943年
·マヌエウ·バンデイラ、カルロス·ドルモンド·ジ·アンドラージ、ホナウジ·ジ·カルヴァーリョ、ダヴィド·ナセルらのテキストをもとに、歌とピアノのための「セレスタス Serestas」の作曲を始める。(完成は1943年)
1927年
·ルシリア·ヴィラ=ロボスを伴って2度目の渡欧を果たし、3年間パリに滞在した。アルトゥール·ルービンシュタインの演奏による「ルデポエマ」や「ショーロス4番、8番」などのいくつかの作品の世界初演を行った。
·マックス·エシッグ社からヴィラ=ロボスの作品を出版することができるよう、パトロンのカルロス·ギンレをアルトゥール·ルービンシュタインが説得する。
1928-1929年
·「ギターのための12の練習曲」を作曲し、アンドレス·セゴビアに捧げた。
1929年
·ピアノ独奏のためのシリーズ「Carnaval das Crianças」をもとに、「ピアノとオーケストラのための幻想曲モモプレコース Momoprecoce」を作曲する。この作品はマグダ·タリアフェロに捧げられている。
·パリに滞在するための資金を調達するため、ブラジルへ一時帰国し、リオとサンパウロでコンサートを行う。
1930年
·ヨーロッパに戻り、バルセロナで公演を行いパリに戻る。
·サンパウロに向かうアラサトゥバ号(Araçatuba)に乗ってブラジルに帰国し、彼の芸術的な創作活動において最も重要な2つの大仕事に取り掛かる:9曲のブラジル風バッハ(チェロ奏者のパブロ·カザルスや作曲家のアーロン·コープランドなどに捧げられている)の作曲と、音楽教育プロジェクトである。後者は、サンパウロ州の仲裁人であるジョアン·アルベルトと知り合いになったおかげで、実施することができた。彼はいわゆる「1930年の革命」に関与した一人で、ヴィラ=ロボスは革命の数日後、「芸術、強力な革命的要因」という論考を通じて、この革命について肯定的に発言している。
1931年
·全54都市を巡演することを目的に、サンパウロ州の内陸部の都市から、「ブラジル·アート·キャラバン」を率いてツアーを行う。このキャラバンには、ピアニストのルシリア·ヴィラ=ロボス、ギオマール·ノヴァエス、アントニエッタ·ルジ·ミュラー、ジョアン·ジ·ソウザ·リマ、ベルギーのヴァイオリニストであるモーリス·ラスキン、歌手のネール·ドゥアルテ·ヌネスとアニータ·ゴンサルヴェなどがいた。
·サンパウロ市で、「市民への呼びかけ Exortação Cívica」と呼ばれる大規模なオルフェオの集会を開き、約1万2000人の合唱を集めた。
1932年
·連邦管区(リオデジャネイロ)の教育長官アニシオ·テイシェイラが、音楽·合唱団の組織と指導を行うことにヴィラ=ロボスを誘った。これは、彼がサンパウロで行った仕事の結実であり、ジョアン·アルベルトを通じて、ジェトゥリオ·ヴァルガス大統領とペドロ·エルネスト連邦区長の注目を引いたことによるものである。
·ヴィラ=ロボスが講師を務める「音楽と合唱の教育学」コースと、連邦管区の教師たちによる「オルフェオン」が創設される。
·2番目の妻となるアルミンダ·ネヴェス·ダルメイダ(通称ミンジーニャ)と出会う。ヴィラ=ロボスは、50曲以上の楽曲を彼女に捧げている。
·学校における音楽·合唱の義務教育が開始される。
·教師のオルフェオンに加えて、小中学校と連邦管区教育研究所の生徒からなる1万3千人の合唱を集めた公開デモンストレーションの実施に取り掛かる。この野外合唱は「オルフォニック·コンセントレーション」と呼ばれ、最大で4万4,000人の合唱を集めた。
·ブラジルで初めての青少年のための教育的コンサートシリーズを、ワルター·ブルレマルクス指揮にてリオデジャネイロ市立劇場で開催する。
·学校での音楽教育開始に伴い、137曲の民謡を編曲した「実践の手引き-第1巻-」を編纂。
1933年
·音楽·オルフェウス奉仕団がSEMA(Superintendence of Musical and Artistic Education)となる。
·C. Paula Barrosの作詞で、彼の音楽教育活動の象徴的な曲である「Canto do Pajé」を作曲する。
1935年
·ヴァルガス大統領のアルゼンチンへの公式訪問に同行し、第3回パン·アメリカン会議(PAMC)に参加。ブエノスアイレスのコロン劇場で、彼の指揮のもと、バレエ『ウイラプル』を世界初演。
1936年-1937年
·ピアノソロのためのCiclo Brasileiroを作曲。本作品は、”Plantio do Caboclo”, “Impressões Seresteiras”, “Festa no Sertão”, “Dança do Indio Branco “で構成されている。
1936年
·プラハで開催された音楽教育会議にブラジル代表として参加し、ヨーロッパへ。しかし、乗船していた飛行船ヒンデンブルグ号の機械トラブルにより、イベントへの参加は叶わなかった。しかしブラジルの音楽教育についての発表を行い、地元の学生たちの合唱団を指揮するという追加のセッションが与えられた。
·ベルリンからルシリアに手紙を書き、二人の関係を終わらせる。帰国後、教え子であったアルミンダ·ネヴェス·ダルメイダと共に暮らすようになる。
·ヴィラ=ロボスの指揮の下、ロレンソ·フェルナンデスのバレエ「アマイア」が上演される。
1937年
·バイーア州ココア研究所の依頼で、ウンベルト·マウロ監督の同名の映画のサウンドトラックとなる「ブラジル発見 Descobrimento do Brasil」を作曲した。
1940年
·ギター独奏のための「5つの前奏曲」を作曲。
·Sôdade do Cordão “を制作し、幼少期のカーニバルのmanifestationを再現。
·善隣政策の下、米国政府機関が主催する中南米ツアーで、レオポルド·ストコフスキーと全米ユースオーケストラがリオデジャネイロとサンパウロで公演を行う。
ストコフスキーは短いリオ滞在中に、ヴィラ=ロボスの協力を得て、ピシンギーニャ、ドンガ、ジョアン·ダ·バイナ、カルトーラ、ジャララカとラティーニョのデュオなど、当時のポピュラー音楽の代表となる面々を集め、演奏会を開催した。この出会いは、『Native Brazilian Music』というタイトルで、それぞれ4枚組の2つのアルバムに収録されている。
1943年
·1942年に連邦政府によって創設された国立合唱院の初代院長に就任する。
1944年
·初めて米国に渡り、同国の重要なオーケストラに招かれ、指揮をする。
·ロサンゼルスのオクシデンタル大学より音楽博士の称号を授与される。
1945年
·ピアノとオーケストラのための5つの協奏曲のうちの第1番を作曲する。1957年の第5番をもって完成したこのシリーズは、それぞれピアニストのエレン·バロン、ジョアン·ジ·ソウザ·リマ、アウナルド·エストレラ、ベルナルド·セガール、フェリシア·ブルメンタルに献呈されている。
·ブラジル音楽アカデミーを設立し、初代会長に就任する。
·ソプラノ歌手ビドゥ·サヤン(1902-1999)とともにブラジル風バッハ第5番より「アリア(カンティレーナ)」をレコーディングする。これは1983年にグラミー賞の「ホール·オブ·フェイム」に選ばれることになる。
1946年
·母ノエミア·ヴィラ=ロボスが死去。
1947年
·ロサンゼルス·シビック·ライト·オペラ協会会長エドウィン·レスターからの依頼で、台本作家ロバート·ライト、ジョージ·フォレストと共同でミュージカル「マグダレーナ」を制作するため、2度目の渡米を果たす。
·米国にて、ピアニストのジョゼ·ヴィエイラ·ブランダォンをソリストに迎え、CBSオーケストラと「ブラジル風バッハ第3番」の初演を指揮する。
·ローマのサンタ·チェチーリア音楽院オーケストラを指揮し、「ブラジル風バッハ第8番」を初演する。
·ローマにて、オラボ·ビラックの叙事詩「エメラルド·ハンター」に着想を得たロレンソ·フェルナンデスの交響曲第2番の初演を指揮する。
1948年
·フランス学士院芸術アカデミーの作曲部門コレスポンダント·メンバーに選出される。
·膀胱癌が見つかり、ニューヨークのメモリアル病院で手術を受け、成功する。
·ミュージカル「マグダレーナ」を完成させ、同年にロサンゼルスで初演された。批評家たちは音楽を熱狂的に賞賛した一方で、台本には厳しい評価であった。
1951年
·ミラノ·スカラ座からバレエの委嘱を受け、「ルダ」を作曲。
·ルイヴィル管弦楽団の委嘱により作曲された《侵食》は(この作品は同団に献呈されている)、ロバート·ホイットニーの指揮により、米国で世界初演された。
1952年
·ニューヨークのメモリアル病院に戻り、さらにがんの手術を受ける。
1953年
·ピッツバーグ交響楽団を指揮し、ベルナルド·セガールをソリストに迎え「ピアノ協奏曲第4番」を米国で世界初演する。
·「アマゾンの森の夜明け」をアメリカで作曲·初演。この作品は、ルイヴィル管弦楽団からの委嘱作品で、同団に献呈されている。ロバート·ホイットニー指揮により同団が演奏した。
1954年
·2月、米国のマイアミ大学より「音楽博士」の称号を授与される。
·イスラエルに捧げる作品「一民族のオデュッセイア」が、ミシェル·トーベMichael Taube指揮、イスラエル·フィルハーモニーによってハイファで世界初演され、ブラジルではヴィラ=ロボスの指揮によって演奏された。
1954年-1958年
·フランスのEMIのために、9曲の「ブラジル風バッハ」や、「ブラジルの発見」の4つの組曲、「ショーロス10番」、「モモプレーコス」、「ピアノ協奏曲第5番」などを録音した。ソプラノ歌手ヴィクトリア·デ·ロス·アンジェレス、ピアニストのマグダ·タリアフェロ、フェリシア·ブルメンタルなどのソリストが出演。これらの録音は、「ヴィラ=ロボス自作自演集 Villa-Lobos par Lui-Même」と題されたCDに収録される。
1955年-1956年
·「ハープ協奏曲」「ギターと小オーケストラのための協奏曲」を初演。これらの作品は、歴史上もっとも偉大なるソリストであるハープ奏者のニカノール·サバレタとギタリストのアンドレス·セゴビアのために書かれた。ヴィラ=ロボス自身が指揮し、それぞれのソリストが、フィラデルフィア管弦楽団、ヒューストン交響楽団と共演し初演することになる。
1955年
·ニューヨークのカーネギーホールで、フィラデルフィア管弦楽団を指揮し、「交響曲第8番」を初演。
·ドイツ音楽家·作曲家著作権保護協会より、リヒャルト·シュトラウス·メダルを授与される。
·カフェ·フィリョ共和国大統領より、アーリ·バローゾとともに功労勲章を受章。ヴィラ=ロボスはコメンダトール位、アーリ·バローゾはオフィシアル位という階級であった。
1956年
·エンパイア·ステート音楽祭(ニューヨーク)の委嘱により同年作曲され、ホセ·リモンが振付·出演したバレエ『ジョーンズ皇帝』、またボストン交響楽団の創立75周年記念として委嘱され、ナタリー&セルジュ·クーセヴィツキーに献呈された「交響曲第11番」などが、ヴィラ=ロボスの指揮のもとアメリカで初演された。
·ハーモニカ奏者ジョン·ベンソン·セバスチャンの委嘱による「ハーモニカ協奏曲」の作曲を終える。
1957年
·1945年に作曲され、セルジュ·クーセヴィツキーに献呈された「チェロとオーケストラのための幻想曲」の演奏にて、ブラジル人チェリストのアルド·パリソがソリスト、ヴィラ=ロボスが指揮者として、スタジアム交響楽団(CBS委嘱時のニューヨーク·フィルの名称)を率いて演奏する。これがブラジル人チェリストの北米(ニューヨーク)デビューとなる。
·70歳の誕生日を記念して、いくつかの賛辞が寄せられている。
•ブラジルでは、教育·文化大臣であるクロヴィス·サルガドのイニシアティブにより、「ヴィラ=ロボス年」が宣言された。
• サンパウロ市は、彼が指揮者として参加する会議やコンサートをおこなう「ヴィラ=ロボス·ウィーク」を開催した。
• イギリスでは、特別演奏会で、ロンドン交響楽団を指揮した。
• ニューヨークでは、同市市議会ら「Meritorious and Outstanding Services」の表彰を受け、ニューヨーク·タイムズ紙では彼の栄誉を称える社説が掲載された。
1958年
·ブリュッセルでベルギー交響楽団を指揮し、ベルギーのエリザベス女王に迎えられる。
·MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の委嘱で、オードリー・ヘプバーンとアンソニー・パーキンス主演、メル・フェラー監督の『グリーン・マンション』の映画音楽を作曲。
·ニューヨーク大学から名誉博士号を授与され、同大学に捧げた合唱曲「祝福された叡智」の初演に出席。
·チェロ協会の委嘱により、チェロ·オーケストラのための「ファンタジア·コンチェルタンテ」を作曲、ニューヨークのタウンホールで自身の指揮により初演する。
1959年
·ソプラノ歌手ビドゥ·サヤォンと、シンフォニー·オブ·ジ·エアを指揮し、『アマゾンの森 Floresta do Amazonas』(「グリーン·マンション」の楽譜にヴィラ=ロボスが付けたタイトル)を録音。
·7月12日、ニューヨークのエンパイアステート音楽祭で「シンフォニー·オブ·ジ·エア」を指揮したが、これが彼の最後のコンサートとなった。プログラムの内容は次の通り:「ショーロス第6番」「悪戯少年の凧 Papagaio do Moleque, 「ウイラプルUirapuru」 「ブラジル発見」より第一組曲、Descobrimento do Brasil – 1st Suite」、そして、ソプラノ歌手エリノール·ロスEllinor Rossによる「アマゾンの森」から「4つの歌」。
·11月17日、リオデジャネイロにて72歳で亡くなり、サン·ジョアン·バティスタ墓地に埋葬される。墓碑には「私の作品は返事を期待せずに書いた、後世の人々への手紙である」と記されている。
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原文:ヴィラ=ロボス博物館2022年発刊カタログ(ポルトガル語版)年表
翻訳、補筆:木許裕介